天体望遠鏡の製作
1.これまでの歴史
2.現在の状態
3.これからの展望
2019.9.17 平井則行
2019年の9月のある夜、ふとヤフオクにMEADEのシュミット・カセグレンの25cmがオークションにかけられているのを発見、なんと、現時点価格が1600円だった。もちろん、これはそのうちにどんどん値が上がり、最後は5万円を超えた。私はオークションの勝ち方を承知していた。初めから、ちびちび入札するのは初心者で、そんなのではだめである。期限の切れる最後の2分間からが勝負なのだ。いきなり、強気の勝負に出るのがこつ。そうして、相手に手強いぞと知らしめる。自動入札の最高額をある程度高く設定する。
 オークションは、その商品をどれくらいで買えたら嬉しいかであるが、結局は経済力の勝負なのだ。入札は自動入札なのだが、想定していた額以上を超えてくると心理戦になる。初期の段階では、これで買えたら嬉しいねという値段で勝負するが、最後は相手を上回る額を設定して、いくらでも釣り上げるぞという気迫を漂わせる必要がある。私が5万5000円を設定した段階で、相手は根を上げた。結局、5万2000円で落札できた。私としては、ちょっと、高かったが上出来である。私にオークションに負けた相手は、その後、2度も25cmのMEADEに挑戦していたが、確認していないが、たぶん、最後も勝てなかっただろう。もっと、強い相手が常にいて、5万円を超えたあたりで諦めていた様子だった。少々高くても、夢は叶わないと悲しいものだ。そうして、この掘り出し物のMEADEのシュミット・カセグレン25cmは市場から消えた。しばらく、出てこないだろう。オークションは出るからには勝たないと意味が無いのである。
 ちなみに、この手の大型望遠鏡は、軽薄短小のご時世なので売れないから、メーカーは現在本格志向ではなく、どうしても大型になる赤道儀はやめ、コンピュータ追尾の経緯台に市場は移行している。MEADEもよりコンパクトな製品を主力が移行している。このタイプのフォーク式赤道儀はもう生産していない。手に入れるには、中古の品をオークションで落札しないといけないのである。
 ドイツ式のバランス錘を使う形式は、どういうわけか日本でも生産しているが、フォーク式は作っていない。おそらく、このタイプは強度的な条件を満たすために頑丈な架台を必要とするので、見た目、ものすごく大型になるのである。
 このような事情は、オーディオの世界でも同じである。バブルの頃ならまだしも、アメリカの大きな家でも、小型軽量の製品が売れ筋のようで、スピーカーでは昔はスタジオ・モニターのJBL大型スピーカーがマニアに好まれて輸入されていたが、最近は、それらの古いビンテージものがオークションで売りに出されている。所有者が高齢となり、遺品整理とか断捨離によってオークション市場に出てくるのだ。買うのは、やはり、金余りの少しだけ若い私のような高齢者である。若い世代は、高給取りといえどもマンション住まいなので、小振りのヨーロッパ製の高級スピーカーなのである。(デンマークとか)か、もしくはオールド・ビンテージの日本製である。スピーカーなどは、特に低音用のウーファなどはエッジが張り替えないといけないものがほとんどである。我が家でも、すでに片方48kgのパイオニアのS995があり、その他、自作のスピーカーがごろごろしているので、欲しくてもA7のような劇場用のスピーカーは買えない。4343なども同様である。とにかく、昔はごついものが売れた時代だった。今は、技術が進んで、2CH+1(小さい150Hz以上を受け持つ高級スピーカーにプラス1のサブ・ウーファで、十分HiFiで迫力もあるシステムが組めるので、大艦巨砲主義の時代は終わったのである。
さて、望遠鏡の話にもどる。

 昔、約25年前だが、藤沢のある店で20cmのMEADEを見つけ、たしか4万円だったか、安かったので衝動買いしたことがある。このMEADEはフォーク赤道儀の架台から外した部分だったので、経緯台としては使用できた。その前に、長女の小学校入学をお祝いして祖母から送られた20万円に少し足してセレストロンの20cmを買っていた。娘は、玄関前で2時間近く熱心に月を見ていたから、十分高い買い物は価値があったと思っている。その後、月を熱心に眺めていた娘は美大に進んで、油絵を専攻したので、なにかしらこの経験が役立ったのだろう。

 私は、子供の成長過程で自然に親しむことの重要性を常々考えている。ゲームなどの人工物ではだめだ。昆虫でも花でも、自然の造形物はとにかく神秘であり興味深く奥深い。どこまでいっても奥があるというのは非常に重要だと思っている。おもちゃは底が浅く、すぐに奥に到達し飽きるものだが、自然は違う。どこまでいっても無限に深みが広がり、 底にたどり着くことはない。ここが重要である。

 藤沢で見つけた20cmのMEADEは架台がなかったので、赤道儀としての機能を持てず、追尾が不便だったのと、架台を作る必要があったことなどで、あまり活躍しなかった。セレストロンの方が、赤道儀(ドイツ式)があったので、はるかに活躍した。娘は6,7歳のときに天体の不思議を十分堪能して、子供の常として、その後、関心は別なものに移っていったが、父親の私は、子供の頃からの天文付きだったので、そのシュミットカセグレンにこだわった。
初めは、20cmの反射望遠鏡なんて初めてだったので、その明るさと解像度には感激したものである。反射望遠鏡はニュートン式とカセグレン式に大別される。その中で、シュミットカセグレンというのは非常にコンパクトな大きさがメリットの望遠鏡である。主鏡も副鏡も球面で、補正板という先端に付いている透明で薄いガラス板を使い、球面収差を解消する構造の望遠鏡である。本来、シュミット望遠鏡とは星座や星雲など、写真を撮るための短いけれど視野の広い望遠鏡を作るための技術で、シュミットカメラと、その道では呼んでいる。これを眼視用に改造したものがシュミットカセグレンである。学術用の本式シュミットカメラは厳密な設計の下、精密に研磨された補正板でできている。これが、眼視用に作られて、安く手軽に天体観測ができるように売り出したのがMEADEやセレストロンである。アマチュアの入門用なので、補正板は簡便な研磨法で製作されている。そのために、精度は妥協の産物なので、見え味は、同じ口径のニュートン式に比べれば、かなり落ちる。それでも、サイズが1/4程度なので、お手軽サイズと成り、ドライブのお供になったりできる望遠鏡である。キャンプなどに持って行けるので、アメリカで大反響と成り、商業的にも大成功した望遠鏡なのだ。

 1994年7月16日から6日間にかけて約20コに分裂したシューメーカー・レビ彗星がついに木星と衝突した。その前年に木星のそばを通ったときに木星の巨大な朝夕力で分裂していたのだ。これは、かなり長い間も見え続け、私はセレストロンで観察することができた。つい最近、2019年にも木星表面に何かが落下したのをアマチュア天文家が撮影している。機材が進歩したのでアマチュアの活躍する場面が増えたようである。

2.私の天文少年時代と反射望遠鏡の歴史

 私と天文との出会いは、火星の大接近だった。火星は2年2ヶ月の会合周期で接近するが、火星と地球の公転軌道が大きくずれているために大接近は約16年おきにやってくる。いつの大接近だったかは忘れており記憶が定かで無いので、理論的に決定してみよう。そのときに私が小学生であったことは確かので、2018年の大接近から逆算して、64年前の1954年ということになる。1948年生まれの私は6歳ということになる。このとき東京の江戸川区小岩にいて小学校1年生の夏だったように思う。というのは、近所の人々が家の前の道路に集まり、東の夕空で赤く大きく輝く火星を観て大騒ぎしていたわけで、そのような状況は寒い時期ではない。このときだったのだろう、父が6cmの屈折望遠鏡を組み立ててくれたもので、その火星を覗いたのが最初である。少年の胸にこの出来事は運命的に響いた。それ以来、私は理科少年、天文少年への道をたどり始める。
 その後、8cmのちょっと大きい対物レンズで望遠鏡を作ったが、最初の6cmの望遠鏡のようなインパクトはなかった。なにしろ、色消しレンズではないただの1枚の平凸レンズで、火星大接近後に起こった天文ブームにつけ込んだ安いキットの望遠鏡である。それ以後も、望遠鏡作りに熱中していたのだろう、町のレンズ工場で接眼鏡に使う小さなレンズをいくつも買い、ラムスデンとかケルナー式の接眼鏡を自作していた。また、別な工場ではレンズの研磨工場があり、そこでも、レンズを買ったり、土間に落ちて堆積している研磨剤を集めたりして、徐々にレンズ研磨への登山道に近づいていた。しかし、まだ、小学校の5、6年生の頭脳レベルでは、反射鏡研磨の方法も理論なども理解できなかった。
 その頃、天文や理科的な知識などは一応年相応に増えていた。縁日で出かけた際には、古本屋で天文と科学などの本を買ったりしていた。図書館などでも読んだりして、それなりにその方面の知識は人一倍持っていて、いっぱしの理科少年だった。その中に、木部茂麿著の反射望遠鏡の作り方という昭和36年に誠文堂新光社から出版されたものが古本屋で売っていた。小学生にも買えたので50円とか100円の値段で安かったのだろう。しかし、理解できたとはいえない。同時期に、「ニュートンの伝記」の古本も買った。イギリスの寒村、ウールソープで…という書き出しも覚えているくらい何度も読んだ。この本は、どういうわけか非常に軽いのであった。乾燥していたためなのだろうか。妙に印象に残っている。
 小学校高学年になると、私の理科好きは公私ともに知れ渡っていて、担任の先生が私を学校代表で「科学センター」の研修生に送り出してくれた。この、科学センターなるものは、東京都の教育委員会の計画だと思うが、将来理科方面で活躍してくれるだろう子供を区ごとに集め、特別メニューで集中教育をしてくれるもので、たしか、火曜日の午後にあちらこちらの学校に集められ、私の区では30人ほどいたろうか。私は、結局、最後の研究テーマに「火星の軌道観測」というのをやり、良く覚えていないが優秀賞か何かをもらったような記憶がある。その研究論文集の表紙に、私が科学センターの講義の課題に取り組んでいる写真が使われたのだけは、はっきり覚えているが、自覚的にはあまりぱっとしない研究だったように思っている。この科学センターの設立は、要するに、スプートニク・ショックだったのだろう。1957年に打ち上げられた人類初のソ連による人工衛星で、世界中が宇宙開発という言葉にパニックになった現象の一つであったのだろう。科学センターも5,6年続いて終わったように思う。だから、今頃、科学センターとかいっても誰も知らない。

 それはそうと、小学校高学年から中学1年まで江戸川区にいたので、その頃の思い出はすべて深いものがある。宇宙に関心があると、当然、UFOとか宇宙人とかにも関心が高い。この当時は、世界中でUFO騒ぎが起こっていた。特に、アメリカなどでは、私と同年代の少年たちが宇宙とUFOに熱中していたのだと思う。アマチュアで望遠鏡作りに血道を上げいた連中は、私同様老年期に入っているわけである。団塊の世代の一つの特徴として、趣味に凝るというのがあるが、一つにはこのすプートニック・ショックがあると思っている。水爆実験やゴジラの映画も影響しているだろう。

 話をいよいよ反射鏡磨きに持って行こう。

 初めて買った木部茂麿の本を読んで、小学生の私と友人は、まず、大きな誤解をした。これは、今となっては笑い話以下のしょうもない愚かな誤解である。
しかし、避けては通れない通過儀礼のようなものなので、恥を忍んで告白しよう。反射鏡研磨の説明図の中に鏡面の中心が描く軌跡の図があった。これは、反射鏡研磨の基本動作である「共磨り」運動の説明図なのだが、この図を見て、私は、なんと「釘」を寝かせてぐるぐる回すものだと勘違いしたのである。砂というのも、いわゆる砂場の「砂」で、カーボランダムという名の研磨剤のことだと知ったのはもっと後年、中学生になってからである。この時期の少年の知能の発達はそうはいっても速いので、すぐに、間違いに気がつくのだが、砂場の砂を水で溶いて、その上で頭を取った釘を、確かに1度はやった記憶があるような無いような…。(恥)

 そのようなわけで、実際、正確な方法で鏡面研磨をしたのは中学校2年生だったように記憶している。ガラスは5mmの厚板ガラス。口径は7cmである。フーコーの検査のやったと思うのだが、確かものすごい双曲面で、望遠鏡の色消しレンズの凹レンズをメッキして作った反射望遠鏡の方がよく見えた。これは、相当にひどい話だ。木星の4つの衛星が見えたのだから、そうでもないか。これ以降、しばらく、反射鏡磨きの趣味から遠ざかる。思春期に突入したのだ。

 思春期というのは、例のエレキブームである。1965年のベンチャーズの来日やビートルズ旋風である。ビートルズ来日は高校1年生の時だった。ベンチャーズには、真空管ラジオから流れる「ダイヤモンド・ヘッド」の音にやられた。高校1年の時に、伊豆半島に友達とサイクリングに行ったが、伊豆の白浜海岸に泊まったとき、周りじゅうからビートルズの音楽が流れていた。夏の海は若者が昼間と同じ密度でテントを張っていた。この頃の青春は、今とは比べものにならないくらい熱かった。そんな訳で、14歳から35歳ぐらいの間は夜空なんか眺めたことはなかったのである。私が36歳、ということは娘が6歳という時代まで、天文的には空白がある。13歳まで東京にいたので、上野の科学博物館に通い、土曜日に開催される天文観察の催しには何回か参加したのが最後である。

 というわけで、冒頭の話につながる。

3.現在 

貼り合わせガラス鏡の運命

左の写真をご覧下さい。これは、私が28年前に研磨した26cmカセグレンの主鏡の現在の姿です。

 厚いガラス材が手に入らないために、市内のガラス店で譲ってもらった厚板ガラス10mmを3枚、エポキシ系接着剤で貼り合わせて26cmの鏡材をつくり、研磨しました。28年たって、ようやく老後の生活にも余裕ができ、久しぶりに望遠鏡を眺めようと思い、倉庫にしまってあったものをくみ上げて月を眺めましたら、全然みえません。セレストロンのシュミットカセグレンの方が遙かにシャープに見えます。せっかく、アルミナイズを横浜のカネコ真空に外注したのに、残念な結果になりました。念のために、フーコー・テスターを使って調べたら、この通りです。
 外周は極端なターンアップ、中心部も極端な幅広ターンアップ。中間部はパラボラとはほど遠い面になっています。もう少し精密に調べれば、中心部だけ絞って使えないことはないでしょうが、カセグレンですから副鏡との関係もあり、ほとんど使えない鏡です。研磨し直しか、その前にエポキシ接着剤を加熱して、均一な厚さに戻さないといけません。

 ネットで、他の方の研磨記録を読みましたが、似たようなことを述べておられました。貼り合わせガラス鏡は、磨いた当初は良いのですが、経年劣化します。やはり、ガラス材は塊を磨かないとダメです。私の磨いた傑作と思われた鏡はすべて同じ運命なのでしょう。悲しい結末でした。

 ゲバゲバ工作の精神が魔のささやきをしてきます。中心部は焦点距離が極端に短いのですが、中心部から15cmあたりにリング状に押し込むと、外縁部はともかく、パラボラに持って行けます。外縁部は平らな面に押しつければ良いでしょう。

 このような結果になった原因は、外縁部も中心部も接着剤の部分の剥がれによる盛り上がりで焦点距離が短くなったものと考えられますから、加熱してエポキシを融かし、加圧して、出来るだけプラスチックは薄くしたいところです。

 一つの実験として、平らな面(たとえば木の板に押しつけて、外縁部をとにかく元の高さまで圧着することが考えられます。

 このガラス剤を活かすには、結局は加熱密着した後、再研磨ということになるでしょう。

目次
1.天文少年時代

2.アーカイブ(30年前の研磨の歴史

3.現在(このページ)

4.シュミット・カセグレン望遠鏡の補正板研磨
zip

5.カセグレン望遠鏡の設計プログラム zip
Delphiで作りました。あらゆる口径、焦点距離、拡大率のカセグレン式望遠鏡を自在に設計できます、面倒なフーコーテストの補正値(パラボラ主鏡と双曲面副鏡)の計算シミュレーション表示(印刷可)付き。
※昔作ったときはDelphiプログラムではなく、単発の物で、当時は確かNEC9801VXでN88BASICで計算していた
はずです。いま、これを使って昔の作品を再現すると、副鏡の双曲面の計算式などなかったので、パラボラで代用していましたので、これがあったら、もっと正確に研磨できたことでしょう。私は40年前に8ビットパソコンのBASICからスタートしていましたが、望遠鏡の趣味のずっと後にDOSの時代を経てWINDOWSの時代となり、Delphiのコンパイラに熱中したものです。さらに20年後にプログラミングを再開しました。
 未来に向けて

 現在の計画は二つあります。一つは超薄ガラス大口径30cmカセグレン望遠鏡です。もう一つはアルミ真空蒸着機の製作です。すでに真空ポンプとベルジャー製作のためのプロパン・ボンベ10kg容器(中古)と拡散ポンプを自作するための中型消火器ボンベ(中古)を購入してあります。
 真空蒸着機は昔、学校教育用の200V電源のものを使っていましたので、要領は心得ています。真空度を上げるために2ステージ型オイルローターリー・ポンプ(達成真空度7.5ミクロンという、この価格帯では最高の性能機種)です。そして、これだけではアルミ蒸着には真空度が不足するので、拡散ポンプで真空度を3桁ほど下げます。拡散ポンプは構造が簡単なので、自作できそうです。ベルジャーをどうするかで悩みました。30mm鉄アングルを熔接してそこへガラスウールを骨材にし、強化セメントでドーム型を作る案も考えましたが、重量が相当重くなりそうだし、果たしてコンクリートで気密が保てるのか、どれくらいの厚さで作れば大気圧に耐えれるのか不明なので、いっそのことFRPで作るかとか、悩んだあげくに、突縁思いついたのがプロパンボンベでした。昔はガラス製のベルジャーでした。現在はステンレスがほとんどだと聞きます。ステンレス製の製品で適当な形やサイズの代用品を探しましたが、なかなか適当な物がありません。
 プロパンボンベは圧力の向きは逆ですが、相当の圧力に耐えるはずで、大気圧と真空の1気圧ぐらいは難なく耐えるでしょうし、なにより安くて軽量です。これを適当なところで切り分け、接合部分を鉄のリングを熔接して、シリコンゴムのOリングで上下を密着します。直径は27cmほどありますので、25cmまでの反射鏡をメッキできます。拡散ポンプは消火器のボンベを半分に切り、中にブリキでオイル放射の傘を半田付けにより作る予定です。これは、私の工作経験と技術で十分可能だと思いますが、問題は配管です。真空配管は未知の領域で、もちろんボンベへの取り付けは熔接ですが、問題は真空ポンプとの結合です。これが、見当が付かないので、現在、調査検討中、コロナ騒ぎで中断しています。
 また、アルミの融点・沸点は600度と2520度ですので、タングステン・ボートを3000度ぐらいに熱すれば蒸発します。ヒーターに流す低電圧大電流ですが、小型のスライダックでいけるはずです。完成し、うまく作動できたら、そのうち喜び勇んでアップしましょう。昔研磨した鏡がいっぱいあり、それらのアルミ蒸着面が見る影もなく劣化しているのが忍びないための、ある意味、人生最大にして最高に難度の高い物への、恐らく最後のチャレンジでしょう。楽しみは残してあったのです。これが出来たら、カセグレンの副鏡などの繰り返し試作、あるいはいろいろなタイプの反射望遠鏡、大口径ブラキ型望遠鏡などへの挑戦への道が拓けます。