時間が非対称であることの謎
素粒子物理学という神をも恐れぬ不埒な分野で、対生成・対消滅という現象が存在する。
真空に於いて電子・陽電子対が突然生まれたり、突然消えたりすると云うのだからミステリーである。
ふつう、真空というものは「何も無い」の極限で、宇宙は真空の大舞台である。
そんな、宇宙まで行かなくとも、目の前にいくらでも真空はある。
原子や分子の周りの空間が真空だからである。
さて、そこを旅するガンマ線という光が、何を思ったか光であることをやめて電子と、陽電子になってしまう現象が対生成。
これ、云うならば映画のスクリーンから実体が飛び出してきたような驚きがある。
まさしく、無から有を生じるような手品。
電子と陽電子はその後、けんか別れのごとく、ものすごい勢いで別れ離れに宇宙の彼方へ飛び去っていく。
二度と出会うことのない双子の運命。
質量が同じなものだから、走り去る速さも同じなのだ。
(光の運動方向を対称軸にとって、これに垂直な座標軸系で対称な速度という意味)
ただ、異なるのは電気量とスピンなど。
この場合、1点から出発してどこぞへ行ってしまうのだから問題ない。
問題はその逆の対消滅である。
対生成の動きをちょうど、映画のフィルムを逆回ししたような現象である。
この言い方が古いのならビデオの再生中に、テープを巻き戻した画面といえばよろしい。
宇宙の果てからやってきて、相手に向かってまっしぐら。
外しもせずに完璧な衝突をして光になってしまうのだから、すごい!
この二つの現象は時間の流れを逆にするだけで、後は全く同じ対称な現象なのである。
ということは過去と未来が対称であることを意味する。
素粒子のようなエレメンタリーな世界では過去も未来もない。
これらが対称でなければいけない理由を、説明しておこう。
それは、まさしく宇宙の果てにいたときから、
衝突する運命にある相手の存在を知っているかのごとく自信たっぷりに、
延々と宇宙空間を飛び続け、やってきたあげくにカップルとなり、消えるのだ。
実に変ではないか。
この世では、確かに陽電子は少数派だ。
いくらでも相手をする電子はいる。
誰でもよかったのかも知れない。
ただ、対生成のことを思えば運命的な関係を想定してしまう。
ここで、重要な事実がある。電子も陽電子も全く個性がないということ。
☆
プリンストンでのファインマンの指導教授だったジョン・ホイーラー先生は、あるとき
「なぜ、電子はこうも同じに見えるのだろうか」という謎に、実に明快な答えを出した。
ホイーラー教授「そりゃあ、電子が一つだからだろう。過去と未来を往復していて、我々はその断面を見ているからさ」
注:毛糸の束を想像する。両手で束の端と端をもって長く引っ張る。
毛糸は一本でも、折り返した束を見るとたくさんの毛糸に見えるのと同じ理屈。
この毛糸には向きがあって、右手を起点にたどっていくとき電子の運命線でその戻り糸が陽電子。
(糸の方向が時間軸で、それに垂直な座標軸が空間軸:その片方が過去(ビッグ・バン)で、もう片方の端が未来(ビッグ・クランチ)。
ファインマン「逆戻りしている陽電子は少ないのですが、これはどうしますか。」
ホイーラー教授「そうさな、たぶん陽子の中にでも隠れているんだろう。」
☆
こんな本当のことを云っていいんだろうか。
我々のレベルに落として、話を過去と未来の対称性について限定する。
時間の対称性が本質だとすると、因果律という言葉は使えなくなり、
対照的な操作をしても消えない(不変な)相互作用という考え一点張りで、ものごとは考えなければならない。
過去から未来に向けて物事は影響力を持つのが普通だが、未来から過去へ向かっての影響力も考えなければならない。
人間は、ただ、それがなぜだか見えない生き物である。
未来は陽電子が少ないがごとく、かすかにしか感じられない。
一般的に未来予知は出来ないとされている。
しかし、予感はある。
何となく自分の明日は信じている。
ひるがえって、過去ははっきりしているんだろうか。
記憶というものがあやふやなことは周知のことである。
(続く)